今からおよそ400年ほど前の、江戸時代の始まりのころのことです。
そのころは、旅をするには、庄屋や代官所のお許しが要り、その証拠として許可証を持つことと決められていました。
そして、街道の要所要所には関所が設けられ、お役人がひとりひとり許可証を持っているのかそれが本物であるのか調べていました。
そんなある日、二人の年老いた巡礼姿の旅人が与保呂(よほろ)の奥の方の堀口(ほりぐち)と呼ばれる村に、迷いこんできたようでした。
巡礼姿であったので、当時流行っていた、お伊勢参りに行ってきたのか、それとも、西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)を巡っていたのでしょうか。
その二人は体が弱っていて、まともに歩くことも話すこともできませんでした。
村①「おめえさんがた、どこから参ってきなされたんだ?」
巡礼「うう・・・。」
村②「ずいぶんお疲れのようすだが、昨日はどちらへお泊りでしたか?」
巡礼「ああ・・・。」
村人が何を聞いてもまともに声も出ないようで、答えがかえってきませんでした。
村①「旅の許可書を持っていなさるか?」
こう聞いても答えはなく、ただ、わずかに首をふるので、持っていないのであろうと思われるだけです。
掘口の人々は、この年老いた巡礼を、おも湯を作り飲ませたり、体をさすったりして、懸命に看護しました。
巡礼の一人はすこし元気になってきたようで、口をもごもごさせて、何か言いたそうにしました。
村②「おやおや、ちょっとは良くなったかい。動かんでもよい、ゆっくりとしなされ。」
巡礼「あ、ありがとう・・・、ございます・・。」
巡礼は必死のようすで、自分のお腹を指さして、それだけ言うと、それきり動かなくなってしまいました。亡くなってしまったのです。
もう一人の巡礼も、後を追うように息を引き取りました。
村①「なんと可哀そうなことを、二人ともいっぺんに亡くなってしまうなんて。」
村②「本当に可哀そうな。せめて天国に行きゆっくり休んでおくれよ。」
村人は、看護の甲斐もなく二人とも亡くなってしまったことにたいそう悲しがりました。
村人は二人の身元が分かる物が何かないだろうかと思い、巡礼が指さしたお腹に巻いてあるさらし木綿をほどいてみました。
すると、そこから見たこともない黄金小判(こがねこばん)がたくさん出てきました。
巡礼は、たくさんのお金を持っていたのでした。
村①「な、なんとこんなに沢山のお金を持っていたなんて。」
村②「びっくりじゃわい。このお金で医者にかかれば助かったかも知れないものを。」
村①「今となってはどうにもしようの無いことだわい。」
村②「元々はそれなりの身分の方だったのかのう、せめて立派な葬式でもあげてやらねばのう。」
この話に、反対する者もなく、立派な葬式をあげるとともに、岩谷(いわたに)に地蔵堂を建てて、二人の霊を慰めました。
それでも、お金はまだたくさんあまりましたので、地蔵堂の周囲の畑を4畝(うね)と言いますから、今で言うテニスコート2面分くらいの土地を買い求めて、その土地の使用料金を、後日の法要の費用にあてること決めました。
そして、その後は村人たちにより、毎年7月と11月の3日の年2回に、ささやかな地蔵祭りが行われ、巡礼二人の供養が続けられています。
(明治年間、地蔵堂所有の田畑は法要の費用に換金されました。
そして昭和初年、法要の費用のための貯金は、その後二百年あまりをまかなう分はどもありました。)
2023.11.おつぎ