布敷(ぬのしき)は田辺城の南の方の山のふもとにあります。 このあたりで一番高い山は、弥仙山(みせんさん)と呼ばれる山です。 この弥仙山に連なる山に五郎山(ごろうやま)がありました。 あるとき、この付近一帯に大きな地震がありました。 その後、大雨が七日七晩降り続き、そのため五郎山が崩れて、そこから流れ出した土砂が今の布敷(ぬのしき)と別所(べっしょ)あたりを埋め尽くしてしまい、そこを流れる池内川(いけうちがわ)をせき止めたので、大きなため池となってしまいました。 そのせいで、田や畑も土砂や水におおわれて、池の下に沈んでしまいました。 池を満たした水は、せきを越え滝のように流れだしました。 その時流されてきた、赤みを帯びた大きな石が川底にあふれ、今ではその滝を「五郎の滝」と呼んでいます。 また、流れ落ちる水は、まるで白い布を敷きつめたように美しく見えたので、この土地を「布敷」と呼ぶようになったそうです。 しかし、一度に大切な田畑や家を失った村人達は、大へんな悲しみにくれてしまいました。 村人①「この度の地震ではひどい目に合った、田畑が全部池の中だわい。」 村人②「それに家も何もかも沈んでしもうて、また建てんといかんのはしんどいことだわい。」 そうして家も山の方に建て直しましたが、また地震でも起こるのではないだろうかとおびえながら暮らしていました。 また、道も池になってしまい、布敷から別所に向かうには高福寺(こうふくじ)を回る細い山道を通ることを余儀なくされました。 災いは続くと言いますが、ここでもそうでした。 やがてこの池にはいつからか恐ろしい大蛇が住みついたのです。 満月の夜になると、池の水面がザワザワと揺れ出し、池の真ん中が山のように盛り上がったと思うと、大きな大蛇が姿を現します。 長さは50間を越えたそうですから、今で言えば100メートルはあります。 胴の周りも1間半とのことで、3メートルはあったようです。 池の上に顔を出しては、金色の瞳をランランと光らせ、口からは燃えるように真っ赤な舌を出しています。 村人の中でも一目見た者は、恐ろしさのあまり病気になって寝込んでしまった人もいました。 庄屋さんを始め、村人たちが対策に頭を悩ませています。 庄屋「もしあんな恐ろしい大蛇が暴れ出したら、村などひとたまりもない、どうしたものやら。」 老人「やはり、ここは何か生け贄を捧げて、怒りを鎮めることが肝要だのう。」 庄屋「そうは言っても誰がなるのじゃわい。」 皆が黙ってうつむいた時に一人の娘がすくっと立ち上がりました。 娘「私が行きましょう。両親が大蛇を見て床に臥せてしまいました。きっと私が仇を討ちましょう。」 こうして、娘が生け贄となって大蛇に向かいましたが、娘も決して黙って飲み込まれるつもりはありませんでした。 懐に短刀をひそませ、大蛇が一呑みにしたときにその刀で、喉の奥を渾身の力で刺したのです。 大蛇はたいそう苦しみのたうち回りましたが、体の中から刺されたのでは逃れることができません。 大蛇は間もなく死んでしまいましたが、娘も大蛇の毒で命を落としてしまいました。 時に天平元年7月のことだそうです。 このことは直ちに大和朝廷の祭祀を司る神祇(じんぎ)の石川年足(いしかわのとしたり)に報告されたそうです。 この娘の霊を祀るために神社が建てられました。 また、併せて大蛇の遺骨も一緒に祀ることにしました。 この神社は「いけにえのみたまのやしろ」と名付けられましたが、そこから今では発音がなまって現在の「池姫神社」と呼ばれるようになったようです。 こうして、娘のお陰で村に平和が戻ってきました。 庄屋「大蛇がいなくなったので村も一安心や。」 年寄「そうだのう、池も埋めたらよい田んぼができるとこだしのう。」 そうして安心して村の人々は精を出して奥の山から土を運び、池を埋め立て、良い田畑を手に入れることができ、今のような美しい田んぼや畑になりました。 それからは、雨が降らずに困っているときにも、大蛇の彫り物が祀ってあるこの池姫神社にお参りすると、雨に恵まれるので、水の神様としても大切に祀られています。 毎年の秋祭りでは、太鼓をたたいて賑やかに祝います。 1年間無事に暮らすことができたり、お米や野菜がいっぱい採れて豊作であったことに対するお祝いや感謝の日として、池姫神社の神様に喜んでもらっています。 今でも五郎の滝には大きな赤石がゴロゴロしているそうです。
2024.10.21 おつぎ