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【PODCAST】2024-4-26 OA 第52回 アロハ桜(中舞鶴・共楽公園)

番組名:ラジオ散歩★舞鶴ウォーカー
カテゴリ:ポッドキャスト, 舞鶴の歴史・民話
更新日:2024年04月26日

舞鶴の桜の名所のひとつ「共楽公園(きょうらく こうえん)」は、中舞鶴の大きな交差点の横にある小高い山にあります。 毎年四月上旬に開催される「桜まつり」では大勢の花見客で賑わう公園の山頂から西側へ少し下りた所に、日本とアメリカの国旗が揚げられ、石碑が建っている所に大きな桜の木があります。 これがアロハ桜と呼ばれる木です。 この木がなぜ、アロハ桜と名付けられたかというお話です。 明治二十二年に舞鶴に海軍基地を置くことが決定し、明治三十四年に中舞鶴に海軍鎮守府が開庁して、舞鶴は国を守るための重要な軍事基地となっていきます。 時を同じくして、全国各地から多くの日本人が、ハワイやブラジルなど海外に移住して行った時代でもありました。 不幸にして、日本は第二次世界大戦に巻き込まれて敗戦してしまい、昭和二十年八月十五日に終戦を迎え、その後の日本を統治するために、アメリカ軍がゾロゾロと進駐してきました。 その年の十月二十七日からアメリカ軍を中心として舞鶴に進駐してきた連合軍は320人で、約20名のハワイ出身の日系二世部隊の隊員も含まれていました。 その中にアメリカ軍のGHQ(ジーエイチキュー)と呼ばれる連合軍最高司令部の中の部署の、CIC(シーアイシー)と呼ばれる対敵諜報部の舞鶴分遣隊隊長として、引揚港舞鶴に駐留した、タカギ氏という方が居ました。 ある日、タカギ氏は仕事で忙しい中どうにか休暇をとり、岩国に住む両親の家を訪ねます。 そして両親に、長く会えなかった事を詫び、貯めていたお金を差し出して言いました。 タカギ「いままで何もしてあげられなかった。このマネーで家を立ててください。」 母親「あなたに会えてうれしいが敵国のお金は受け取れない。そのお金は苦しんでいる日本の人達の為に役立ててくれ。」 タカギ「そんな…、私はどうしたらよいのだろう…?」 タカギ氏は泣いて答える母親にとまどってしまいました。 それ以降、この荒廃したまちや人々の心を癒すには何をどうすればよいのかと、タカギ氏は何日も悩み続けた末に思い付いたのが、それまで絵でしか見たことがなく、日本に来て初めて対面した本物の桜の花です。 タカギ「そうだ!あの焼け野原で力強く咲いていた美しい桜は日本の象徴だ、平和と復興の願いを込め、桜の苗木を贈ろう!」 と決意したタカギ氏は、思い立つと直ちに造園のまち池田(大阪府)へ軍のジープで走り、持ち金をはたいて桜の苗木を注文します。 しかし後日に東舞鶴の駅に70本の苗木が届いた時は朝鮮戦争が始まる頃で、既に転勤命令が出されていたタカギ氏には、苗木の植樹を手配する時間すら残っていません。 その時偶然にも駅の構内にいたMIS(エムアイエス)と言う陸軍情報部の通訳部隊である日系二世の兵士二人に出会ったタカギ氏は、その兵士に事情を話し植樹を依頼し、後ろ髪を引かれる思いで舞鶴を後にして去って行きました。 兵士①「タカギ氏とそのお母さんの、自分のことよりも日本のことを思う気持ちに感動したよ。」 兵士②「そうだね、その心を我々が意思を継いで荒れ果てたまちに平和の象徴としてこの桜の木を植えなくてはいけないよね。」 そのタカギ氏の熱意に感心した日系二世のふたりの兵士を中心に植樹の協力者が増え、桜の苗木のソメイヨシノ70本は、共楽公園をはじめ引揚港から中舞鶴にかけて付近の学校や公園に植えられていきました。 その時植えられた苗木は今では大きく育ち日米友好のシンボル「アロハ桜」と名付けられ、今も共楽公園に訪れる多くの市民から親しまれています。 そうして50年近く経ったころ、桜の苗木がどうなったか知らないままでいたタカギ氏は舞鶴に招待されました。 そして植樹された桜が大きく育ったのを見て感激されたそうです。 タカギ「私が二人の兵士に託した桜の苗木を、きちんと植えてくれたうえに、まちの人々がしっかり守り育てて、こんなに大きく立派にしてくれたのですね。」 そう感動し大いに喜んだタカギ氏が亡くなられた後も、アロハ桜は中舞鶴の有志の皆さんや中舞鶴の和田中学校に通う生徒の皆さんの手によって守られ続けています。

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